竜児が生まれたのは昭和41年(1966)6月なので、中学入学は昭和54年(1979)4月になるわけですが、ワールドグラブカップ(世界大会)が行われたのも、なんと昭和54年なのです!
それの何が驚きかというと、月島五中に入学して荒れ放題だったボクシング部に入部し、聖華学院で剣崎との練習試合、都大会での辻本、剣崎との対決、チャンピオンカーニバル、日米決戦、影道館での死闘、万博会場跡での影道戦、そして世界大会と、これらが最長でもわずか9ヶ月の間に行われているということです。
この過密スケジュール、常に何かのイベントをやっている感じで、これでは息の休まる間も無いでしょう。
ちなみにこの間に闘った相手はおもなものだけでも剣崎(練習試合)、辻本、志那虎、剣崎(都大会)、桐野、武智、織田、金城、志那虎、河井(チャンピオンカーニバル)、ブラック・シャフト(日米決戦)、朱雀百人衆、青龍の間の番人、玄武の間の番人二人組、白虎の間の番人、野火(影道館)、影道総帥(万博跡影道戦)、ドン・ジュリアーノ、ナポレオン、ヘルガ、アポロン(世界大会)と、都大会や世界大会に出てきた名前の無い人たちを除いてもこれだけの相手と闘っているわけで、平均すると2日に一回程度は誰かとバトルをしていることになります。
物語の終盤で、竜児の骨に無数のヒビが入り、過去の壮絶な闘いのせいで身体がボロボロになっていることが明らかになるわけですが、中学一年生からこれだけハードな闘いをしていては、それも仕方のないことだと思います。
しかし、過密スケジュールもさることながら、さらに驚くべきは竜児の成長力です。それまで菊ちゃんからボクシングの指導を受けていたとはいえ、家出して上京し、聖華学院に転入した当初は、剣崎から「ド素人」の烙印を押されていました。
ところが、その後パワーリストの装着によって見違えるほど成長した竜児は、中学に入学直後、ボクシング部の不良先輩部員数十人を瞬殺するまでに強くなっています。
さらに、おそらく夏休み頃に開催されたであろうチャンピオンカーニバルでは初めてのスーパーブロー・ブーメランフックを披露。そして続く日米決戦ではブラック・シャフトを撃破して事実上日米のトップに。また影道戦ではブーメランフックの進化版、ブーメランスクエアーにて総帥を太陽の塔まで吹っ飛ばし、この時点ですでに人間離れした力を身に付けていました。。
さらにさらに、世界大会ではフランス、ドイツ、ギリシャを葬って世界の頂点に。アポロンとの決勝戦では、菊ちゃんが感動で涙を流していましたが、それも無理からぬことでしょう。小学校5年生まで寝小便をして富藏から折檻を受けていた竜児が、3年も経たない間に、これほどまでに強くたくましく成長したのですから。
しかし「男子三日会わざれば刮目して見よ」とよく言われはするものの、さすがにここまで急成長する例はなかなかあるものではありません。やはり剣崎が言うように、竜児はとてつもない天才だったのかもしれませんね。
最後になりますが、あの昭和54年から、もう40年以上もの歳月が流れました。本当に月日が過ぎゆくのは早いと、この年になって痛感します。 ただ、当時リングにかけろから受けた感動は、何歳になっても忘れないと誓って、今回は締めたいと思います。